合宿免許のこんな対策
合宿免許のこんな対策
夜中の二時、三時になるとさすがに疲れが出てくる。
そこで、私のよきアシスタントであったM本才吉さん(現在は静岡県の寿絹業社長)をつれて近所の居酒屋、行くのが常であった。
もちろん、そんな時刻のことだから、居酒屋を叩き起こさなければならない。
そこで一杯ひっかけて帰ってくるとう工場内の炉たでゴロ寝である。
仕事は少しも進捗しない。
したがって、修理工場時代に儲けたつもくの資金もほとんど使いつくしてしまった。
「やはり学理的にやくなおさなければならない」と気がついたのはそのころであった。
失敗につぐ失敗という結果もしょせんは私に基礎的な知識がないからだと考えるようになった。
このときくらい、学校時代に勉強を放ったらかして遊びに夢中になっていたことを悔いたことはなかった。
学問は学問、商売は商売と割り切っている人もいる。
たしかにそういうこともいえるだろう。
学問が根底にない商売は、一種の投機事業みたいなものでしかなく真の商売を味わうことは不可能だといえないだろうか。
私のようなものが、こんなことを言葉にするのは、いかにも厚顔無恥ないい分かもしれないがしかし、骨身にこたえた自分の基礎の薄弱さを後悔した体験が強く私にそのことを悟らせたのであった。
「泥田からアゼ道、のぼることはできても大道にのぼることはできない」というわけで私は、大きな仕事をやるにはやはく技術の基礎がなければ駄目だと思い知らされたのである。
そこで私は浜松工業専門学校、現浜松工大[編注・正しくは浜墜口同等工業学校、現在の静岡大学工学部] の藤井先生をたずね、依頼する気になったのであった。
先生をたずねると、「どうしてもっと早くもってこなかったのですか」と藤井先生がいわれた。
T代先生(現在浜工大教授)に紹介してくれた。
さっそく、田代先生に私の製作したビストン・リングを分析していただいた。
すると、「シリコンっていうものが足りません」と教えてくださった。
考えてみれば、そんな初歩的な基礎も知らずにピストン・リングをつくろうと考えていたのだから、われながら向こう見ずの猪突主義だったと気がついた。
というのも五十名からの従業員をかかえ、それらの人々のためにも、なんとかしなければならないと悲壮な決意をもっていたかもしれない、といまにして思いかえされる。
私は自分の不明を知ったとき、やはく根本的に基礎からやるべきだとはっきり悟った。
そこでさっそく、浜工の校長に依頼して、聴講生の一人に加えてもらうことになった。
私にはいっそう多忙な日々がくりかえされるようになった。
学校から帰ってくると私は仕事と取っ組み、夜中の二時一二時まで研究を怠らなかった。
その生活力というか仕事、の食欲というか く 私の生活力は自分ながら、まことにすさまじいものだった。
その気になりさえすれば、カワラの上にまかれた種子でも芽を出すといった意欲だけはいつでも湧いてくるのが私の人生であった。
その努力はいっこうに実りそうもなかった。
私は貯えも底をつき、妻のものまで質屋、はこんだこともあった。
「いまここでやめれば、みんなが飢え死にするしかないのだ」と私は自分を励ましつづけた。
そういうなかにあってどうにか物になくそうなどストン・リングをつくることに成功したのは、忘れもしない昭和十二年十一月二十日であった。
ピストン・リングを始めてから九カ月の月日が流れていた。
量産され、商品化されるまでには、まだ苦しい前途が待ちかまえていた。
聴講生としての私は試験があるたびに全く答案が書けない始末なのだ。
それもそのはずだ。
ほかの学生たちは講義をうのみにして覚えるが、私は自分のやっている実際の仕事と合わせて、講義を聴いているのだから、試験のための勉強は何三やっていなかったからだと思っている。
二十九歳の老学生である私は、それでも学生服を着て学校、かようことをやめなかった。
試験になるとできたためしがない。
しまいには、私もあきらめてもう試験ほうけないことにした。
私としてみれば、ただ立派などストン、リングをつくることだけが唯一の目的のようなものだったのだから、試験などには少しも拘泥しなかった。
そういった状態のまま、二、三年はかり学校、かよって講義を聴いていたが、とうとう退学ということになってしまった。
退学と気がついて、学校当局にその理由をただすと、「お前は試験をうけないから、免状もやれない」という。
「免状は要らない。
私は仕事のために勉強しているので、免状が欲しくて勉強しにきているのではありません」と私は答えた。
「それでは学則に反するから退学です」ということで、私も退学を納得した。
その後も一年くらいは、学校、顔を出して講義だけ聴いていたように記憶している。
授業料なしの聴講だから、私にとってはありがたいことであった。
そういうあいだにも、私の血みどろの努力はつづいていた。
その努力がどうやら実をむすぶようになった。
その成績はまだ思うように上がらなかった。
研究室をつくつて、寝る間も寝ずにつくり上げた製品が少しずつ市販されるようにはなったが私は満足できなかった。
そこである自動車メーカーに交渉して三万本ほどつくり上げ、その中から性能のよいものを五十本選出してもっていくと、納品検査の結果合格品になったのはわずかの三本というみじめなものであった。
私はその報告を聞いてまだまだ研究不足であることを悟った。その苦しみに耐えて、私はいっそう研究室に閉じこもるようになった。
その成果が少しずつ現れ、戦時中、トヨタ自動車から資本も入った。
会社のピストン・リング生産もようやく軌道に乗りはじめた。
いっぼう、私は技術を生かして国家に奉仕していたが、その一例として当時の読売報知新聞の掲載記事を抜すい引用する。
刻下の急務といわれる翼の増産を生み出す一億の創意工夫のうち絶えざる苦闘の連続によって自らを鍛え上げた街の一技術家の手によって世界の水準をしのぐ工作機械二種プロペラ・モデル・マシンとモデリング四軸旋盤が発明され航空機増産のあい路も見事打開、日本的技術に勝間が高く挙がった。
東海精機重工業○○工場の専務取締役本田宗一郎氏(三十九歳)がその人、氏は鍛冶屋の倅に生れて高小卒後、東京軽金属鋳造所の徒弟を振出しに苦行の半生を続け、浜墜口同等工業機械科夜間部の二年を修了し、内燃機関のビストン・リングの重要関係に着眼して独力研究、ピストン・リング関係だけでも二十八件、その他を入れれば四十数件におよぶ特許を得て今日を築き上げた人、すでに発明協会からも表彰されたが、「アメリカの組織とアメリカの工作機械に依存してアメリカとの戦争に勝てるか、日本は日本の技術を確立しなければならぬ」という火の信念と、その卓抜な才能を買われ、昨年来全国有数のプロペラ生産工場○○航空機製作所、嘱託技師として迎えられ当面する技術のあい路打関に心をひそめ設計を完成した。
プロペラ生産拡大のあい路は「手の労働」に依存し充分に機械化され得ないという点にあった。
しかも性能の低い在来の荒削り機でさえ却々入手し難い現況で、どうして「量には量を」の要請を充たし得よう。
優秀を誇るドイツ製工作機械でさえ、厚内部と端部を削り分けるべきカッターの接触速度に充分なる機械学的解決が行なわれていない。
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結局合宿免許で自分磨きをしてみませんか?欲しい合宿免許が欲しい所に来た感じです。
有望な合宿免許に対策をしましょう。合宿免許がもっと楽しくなります。